自分の個性を自覚する前から、自分は自分だったと知った過去の絵日記

先日、実家に帰って
自分の荷物を整理していたら、
小学校の時に書いた
宿題の日記が出てきました。

 

 

書いた記憶は全然ありませんでしたが、
絵がでかでかと入っている!
しかも絵の熱量すごい!

他のページもパラパラ見ましたが、
絵のないページがない。

ノートの表紙を見る限り、
「絵日記」じゃなくて
「日記」の宿題のはずなのに。笑

特に先生に許可を取っていないのに、
「絵を入れてもいい」という
勝手な自分独自のルールで描かれた
なんとも自由な日記でした。

 

こういう時、
「怒られそうなことはやめておこう」とか
「やってもいいか聞いてみよう」という
大人心的な賢さはなく、

「やってみて、怒られたらやめよう!」

というタイプの小学生だったのを
思い出しました。
(というか、今もそうでした)

気になって小学校の時の作文も
読んでみましたが、
もれなく全部の作文に
当然のように私の挿絵が入っていて、
さすがに呆れて笑いました。笑

あぁ、私って、
ずっと前からこういう人間だったな
自分のことが腑に落ちるというか
ストンとくる瞬間が時々あるんですが、
あの感覚を久々に味わいました。

 

今の時代は
「自分を知ることが大事だ」と言われ、
いろんな方法で自己理解をしようと
勉強したりしますが、

自分が自分のことを理解する
ずっと前から、
自分はずっと自分だった。

一見、混乱してしまいそうな文ですが、
そんな言葉がしっくりきました。

 

もちろん絵日記学を教えているので、
「自分を知ることが大事だ」
という考えに私も異論はありません。

一方で、
そんなにがむしゃらに追い求めなくても
スタート地点に探していた宝物はあった
というオチは、
『幸せの青い鳥』の話などでも
昔から語られていたりするんですよね。

「じゃあ最初から結論がわかってるなら
わざわざ探さなくていいじゃん」
と言われてしまいそうですが、

効率よく結論へショートカットしても、
自分を知ろうと
一生懸命に試行錯誤した人が
最終的に出した結論とは、
自己納得感がまるで違うのだと思います。

その自己納得感こそが、
自分が自分であるという「実感」であり
自分を信頼する
「自信」になると思うんです。

 

つまりショートカットでは、
これが手に入らないんですよね。

たとえば海外に一度も行かないまま、
「やっぱり日本が一番だ」
と言っているようなものです。

それに自分の実感や体験がないと、
その結論の深みや重みは
薄っぺらくなってしまう気がします。

結論の深みや重みが、
その人の発する全て
(自分の言葉や人間性、まとう雰囲気)
にも反映されて、
その人を作るのでしょうね。

 

自分を知ろうとすることは大事。
ただ、絵日記学に来る生徒さんを始め
元々まじめで頑張り屋な人には、

「ちゃんと『自分』は見つかるから、
少し入りすぎた肩の力を抜いて
焦らず丁寧に
自分を掘り下げていってごらん」

とも伝えたいなと思います。

‥‥さて、
私の小学校の日記から
話がどんどん大きく
広がっていってしまいました。
(頭の中が多動なのも子どもの頃から)

 

私が『絵日記学』という仕事をする
原点となったのは、
今のスタイルの絵日記を書き始めた
15歳のこの時 ↓ からでしたが、

その片鱗は、
15歳より更に前の小学生のころから
既に表に現れ始めていたようです。

私自身、
そんな前から絵を書いていたことを
まったく覚えていなかったので、
「本当の自分」や「個性」というのは
無自覚で自然に出ているからこそ
気付きにくいのかもしれませんね。

 

ところでカミナリ鬼の横にいる
この生き物(?)がなんなのか、

私自身もわからないのですが、
なんだか気になってしょうがないので
どなたかわかったらご連絡ください。笑

 

 

焦らず丁寧に自分を掘り下げたい方は
こちらから


2022-08-15 | Posted in さわ's絵日記(ブログ)No Comments » 

関連記事